論文コンクール以後


 高校1年の頃に、ひとりで歩いて集めた調 査結果をまとめて、校内の論文コンクールに出して、幸運にもそれを周囲に認 めてもらえたことがいまの道につながっています。

 このときの論文は、調査結果を当時怪しくなり始めていた地向斜−造山運動 論にあてはめて解釈してみた、というものでした。しかし、書き上げて印刷さ れたものを読んで考えるうちに、どうもその解釈ではしっくり来なかった部分 が次第に膨らんできました。その前後、高校時代から浪人中は、欲望のおもむ くままに地学関係の本を読み漁ったものです。3つの図書館の地質関係のコー ナーの本を、ほとんどすべて読んだはずです。書店も立ち読みで・・。

 なにか違う、権威に頼らず、自分の言葉で記述しなくては・・という気持ち が、ぼんやりと芽生え、それに応えるものを探し続けたような気がします。大 学に入ってからもそうで、指導教官をだましたわけではないのですが、卒論は 高校以来のフィールド、日立をやらせてもらいました。

 卒論の結論は、日立の地層(変成岩)は、大陸地殻のリフトにともなうもの である、ということでした。ちょうど、日本海が割れてできたようなイベント だ、と。これをもって、高校時代からの宿題にひとつの回答を出したつもりな のです。修論ではグリーンランドの岩脈をやりましたが、これとやや共通する 問題に出くわし、博士の途中まで続けていましたが、ちょっとすぐには解決し ない困難に出くわして(主に調査費用など)、日立の材料に戻って、博論はそ れをベースに書くことになります。これらは共通して、大陸が割れるイベント で何がおきているか、そして、大陸地殻の進化の問題と密接に結びついたこと を扱っています。それを何の手法で語るかということで、ようやく微量元素の 濃度比の使い方にめどが立って、書けそうなところまできたわけです。

 さて、同じ材料を扱っていても、地向斜−造山論での解釈と、大陸地殻の分裂や島弧の形成、その終末の認識と、ずい ぶんちがったストーリーになってくるわけです。その変化を、時代にやや遅れ て僕は自分の中で経験(追体験)することになりました。その認識は、他の研 究を知ることで、それを持ってきてあてはめた部分も確かにあります。しかし、 ずいぶん自分で山を歩き、石を叩きながら、考え、悩んだ部分があります。変 成岩の原岩を読みとることを主眼にしたため、ただ歩いただけではわからず、 行くたびに前回の認識の誤りに気づくありさまでした。それで、通算で30回以 上歩いたルートが1本、20回以上が2本あります。ここまでしつこい人間もあ まりいないでしょうが、いまでもまだ地質図を書くのに悩むのです。それくら い、難しい。(もっとも、薄片作りは熱心ではなかったのですが。)

 こういう作業を通じて、また大学入学後にあちこちの地質を見て歩くことで、 地質学とはなんだろう、と、その同じ対象に対する認識の変遷などを、とても 意識するようになりました。僕は地質学しか視野になく、全体を見渡した科学 史などは一生手がけることはできないと思いますが、地質学の歴史には興味を 持っています。部分的にはきっと全体に還元できるものもあるに違いないと思 っています。こういう意味では、部分に本質が隠れている、という信念はあり ますし、科学論・科学史に対してもそのような意識があります。それが、前に 述べた研究者の基盤による科学への捉え方の違い、の意識です。

 …【理科の部屋】発言#17373(1996/11/30)から部分引用。


あしあと

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